科学社会学会第4回年次大会プログラム
10月10日(土)
10:00-12:00
セッション1:書評セッション
シーラ・ジャサノフ『法廷に立つ科学―「法と科学」入門』(勁草書房、2015年)
司会:酒井泰斗(ルーマン・フォーラム)
1-1 著作紹介 : 定松 淳(東 京大学)
1-2 コメント1: 佐野 亘(京都大学)
1-3 コメント2: 寺田 麻佑(国際基督教大学)
1-4 訳者のリプライ 1:吉良貴之(宇都宮共和大学)
2:定松 淳(東京大学)
法廷や審議会などにおける科学者・専門家の振舞いや科学的知識の提供・利用のされ方は科学社会学的にとって重要な主題であるが、法や行政に関する研究との連絡が課題となるところでもあるだろう。この書評セッションでは、このたび邦訳が刊行されたジャサノフ『法廷に立つ科学』をとりあげ、専門分野間の議論の場を提供することを目指したい。
本書は「法と科学」分野の古典であり、法と科学技術の各アクターによる実践の相互構築的なあり方・緊張感をもった補完的関係を分析した点に重要な特徴がある。中心的な話題はアメリカにおける司法過程であり、取り上げられる科学裁判の多くは行政訴訟であるため、その意義を理解するにも、まずは行政法的視点からの分析が不可欠である。特に環境法、医事法、情報法については現代の日本も多くの課題を共有しており、比較行政法的分析が有益なものとなるだろう。
また科学裁判で提起された問題が規制行政機関(regulatory agencies)においてどのように受け止められ法政策に結びついていくかを研究主題とする場合、 政治過程における各アクターの行動を行政学・政治学的に分析する視角と、 そこでいかなる法的論理が発展しているかを分析する行政法的視角は、同じく「行政」を対象としながらも非常に異なったものとなる。法の各ブランチ(立法・行政・司法)の相互作用にも焦点を当てた本書について検討する中で、科学/行政/行政法に関わる研究分野が政策過程分析に関して連携する可能性についても考えてみたい。
以上の理由から、本セッションでは、比較行政法と行政学という2つの分野から評者を招き、日米の比較も念頭に置きつつ、科学技術問題に関わる法政策形成過程の多角的な理解につなげることを目指したい。
14:00-15:30
セッション2:事故・災害
司会:TBA
2-1 健康リスク軽減に対する保健師の実践知の制度化―地域防災を念頭に
板倉有紀(日本学術振興会 PD)
南海トラフ地震に対する危惧の高まりのように、広域型の自然災害のリスクは、自治体のリスク管理のあり方に再考をせまるものである。東日本大震災の津波被災地では、岩手県大槌町の事例のように、地域社会における健康リスクという日常的なリスク課題に対して、公衆衛生看護の立場から働きかけてきた保健師の長年の知識が、被災後の安否確認や人口ピラミッドの再編に役立てられてきた(村嶋・鈴木・岡本2012、板倉2013)。保健師は、自治体職員でもあることから、自らが勤務する自治体が被災していなくても、災害時には被災自治体へと派遣される。保健師の知識に基づく行為は、非常時のリスク対処に対してどのように効果的であるといえるのだろうか。こうした課題意識が、保健師の業界においても高まってきている。
そこで、本報告では、いわゆる素人や公衆ではなく、またリスク管理の専門家でもなく、行政職員であり、保健医療専門職でもあり、しばしば被災した自治体の住民でもあるという、保健師の災害対応力に注目する。ベテランの退職保健師を災害対応に向けて組織化した徳島県プラチナ保健師の事例や、神戸市における災害時の保健師の活動マニュアルの事例、実際に被災地に派遣された保健師へのインタビューをとおして、保健師の専門的知識・実践的知識が自然災害のリスク軽減と、どのように関連づけられているのかを検討する。そうすることで、自然災害に伴う、特に健康面でのリスクに対処するための多様な知識に関する社会学的研究の視点についての展望を示したい。
村嶋幸代・鈴木るり子・岡本玲子, 2012,『大槌町 保健師による全戸家庭訪問と被災地復興―東日本大震災の健康調査から見えてきたこと』明石書店.
板倉有紀, 2013,「東日本大震災における『支援』と『ケア』―『ニーズの多様性』と保健師職能(特集 社会問題としての東日本大震災)」『社会学年報』42: 17-29.
2-2 福島第一原発事故後の対策をめぐる批判-改良サイクル
立石 裕二(関西学院大学)
原子力発電(原発)事故やそれに伴う放射線被ばくをめぐっては、「事故のリスクは大きく、放射線は危険だ」とする原発反対派と、「リスクは小さい」とする原発推進派との間で、長い間論争が続けられてきた。2011年に福島第一原発事故が起こると、反対派は自分たちの指摘に事業者が対応してこなかったことが、事故の発生・拡大につながったと主張するようになった。それとは逆に、推進派と反対派の間の膠着した対立が、原発の安全対策を進める上で障害になってきたという指摘もある。新しい対策の導入が原発の危険性を訴える材料として使われることを懸念し、事業者側が対策を躊躇する面があったというのである。実際のところ、論争の中での批判はリスクの低減に貢献してきたのだろうか。
この点を考えるために、本報告では「批判-改良サイクル」という概念モデルを導入したい。これは、1)外部のアクターが問題点を指摘する→2)事業主体の内/外で認知・共有される→3)事業主体が対策をとる→4)外部のアクターが対策の効果を検証し、さらに別の(より高度な)問題点を指摘する→…という循環的なプロセスをさす。実際にリスクが減ったかどうかは検証困難だが、批判に対する対応の有無、その結果としての争点の変化の有無は、社会学のアプローチで明らかにできる。批判をめぐって現実に起きていることは、この理念型的なモデルから多少とも外れていると考えられる(情報が足りずに具体的な批判ができない、要求が極端すぎて対応しようがない、せっかく指摘しても無視されてしまう、対策を取っても効果が測れない、など)。それでは、どのような局面、争点で外れ方が大きくなるのか。それはなぜなのか。このサイクルから外れることは、各アクターにとって、さらには問題の帰趨にとって、どのような意味をもつのか。福島第一原発事故後の論争・対立を事例として考えていきたい。
15:45-17:45
セッション3:病・医療・生物医学
司会:山中浩司(大阪大学)
3-1 誰が生物医学化を望んでいるのか?
-contested illnessにおけるループ効果の三項分析に向けて―
野島那津子(大阪大学、日本学術振興会DC)
Contested illnessとは、身体症状を訴える患者が何らかの疾患があると主張するのに対し、医師はそれを医療的なものと認めない病をいう。筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)、線維筋痛症(FM)、過敏性腸症候群(IBS)などがcontested illnessに含まれる。こうした病には、患者の訴えを裏付ける生物医学的エビデンスが存在しないため、生物医学的知と患者の経験は衝突を起こすとされる。つまり、contested illnessは、患者の状態に対する医師の認識と患者の主張がかみ合わないために、論争の様相を呈するという理解が一般的である。
しかし、報告者が行ったME/CFS及びFM患者へのインタビュー調査では、医師は必ずしも生物医学的知に拘泥せず、患者の状態を見て診断・治療を行っていた。他方、患者の周囲の人間は、患者が診断名を得た後も、病気の存在を否定したり症状を軽んじたりしていた。たとえば、ある患者は配偶者に対してME/CFSについて説明するものの、事あるごとに「医学的に証明されたわけじゃない」と病気の存在を否定されていた。患者の配偶者が意味する医学は生物医学であり、(生物)医学的に説明できない病気は病気足り得ない。
Contested illnessをめぐる従来の社会学の議論においては、医師と一般社会の理解は一枚岩と見なされてきたため、患者の状態に関する医師と周囲の人間の理解のこうした齟齬は奇妙な印象を与える。しかし、概念の利用・理解においてタイムラグのある医師と公衆が、contested illnessに対して同じ見解を示すという前提こそ疑問に付されるべきである。報告者は、contested illnessをめぐる意味づけの構造を解明するにあたり、ハッキングのルーピング効果を用いた検討が有効であると考えるが、概念と対象だけでなく対象外の人も含めた三項の相互作用を検討する必要性を主張する。
3-2 日本における「自閉症」現象の構築と展開
竹内慶至(金沢大学)
現在、先進諸国において、自閉症スペクトラム(ASD:以下「自閉症」)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)をはじめとする、いわゆる発達障害が「社会問題」として注目を集め始めている。このような状況のなか、脳科学や精神医学、心理学などの領域では熾烈な研究競争が巻き起こり、毎日のように関連遺伝子や発現率の報告、心理療法の効果などに関する研究成果が報告されている。
本報告では、特に「自閉症」に着目し、I・Hackingによるループ効果概念をベースに、社会現象としての「自閉症」にまつわる問題群が日本においてどのように構築され、展開されてきたのかについて検討する。
ループ効果概念を用いた研究としては、Gil Eyalらによる『自閉症マトリクス』(“The Autism Matrix”)が知られている。同書は米国における自閉症発現率の急上昇に対して、いくつかの仮説を提示している。Eyalらによれば、自閉症発現率の急上昇の前提となる出来事として、精神遅滞の「脱施設化」があったという。そして直接的には精神遅滞からの「診断代替」として自閉症という診断名が用いられることにより自閉症発現率が上昇したという。さらに、診断代替の背景には、白人中流家庭の果たした役割や早期介入プログラム、特殊教育などの新たな活動家の担い手の参画があった。これらの複合的な要因が重なり、ルーピング過程が拡大・増幅して形成されたループ全体のことをEyalらは「自閉症マトリクス」と呼んでいる(Eyal et al.:2010)
Eyalらの研究は「自閉症」の増加の背景にある社会的要因に関する有力な仮説を提起している。脱施設化や新たな活動家の参入などの仮説は日本においてもあてはまる部分もあるだろうが、全てがあてはまるわけではない。日本における自閉症の増加や「自閉症」にまつわる様々な社会現象の検討は別途必要である。本報告では報告者がこれまでに実施した聞き取り調査や収集した資料をもとに日本における自閉症マトリクスの一部を描き出すことを試みる。
3-3 薬物効果のループ-西ハンガリーの治験施設支援機関の事例から-
モハーチ・ゲルゲイ(大阪大学)
臨床試験(治験)とは、開発中の医薬品などを病人と健常者の両方に投与し、新薬の安全性と効率性を評価する仕組みである。一方では、実薬と偽薬を比べる実験の場であるが、他方では、病気を患っている人々を治すための実践でもあり、その上で理性と感性を媒介しているプロセスだと言える。つまり薬の効果を比べることは、エビデンスを求める治験の最大の目的であると同時に、被験者同士の苦痛をつなぎ、共有する経験を生み出していく。患者が自分の症状に対する感覚を研ぎすませば研ぎすますほど、医師及び企業が薬の効き方の論理を突き止めることができるのである。
本発表では、ハンガリー西部にある小規模臨床試験センター(DRC)の事例から、医師と患者、治験コーディネーターが、どのように錠剤や疾患カテゴリーの多様性に対処しているのかを描き出す。DRCでは、糖尿病と骨粗しょう症に関する研究および治療を中心に、1990年代前半の市場解放から外資系製薬企業と周辺の地方病院とのネットワークを徐々に拡大し、多種多様の患者(被験者)を集めることができるという施設として地位を確立してきた。
そこで諸海外市場に向けた新薬の開発に関係する一連の出来事の一環として、新たな化合物のさまざまな治療効果が、少数であるが多様な患者集団を対象に比較されている。効果的な治療(薬)は、人間の多様性および疾病分類の間を絶え間なく循環しているループに現れ、そこでは科学技術社会論の方法が、探求の科学的モードと人間学主義的モードとの間に確立された境界を乗り越えていく。STSおよび臨床試験の両方において欠かせない手段である《比較》は、多数の分離した民族・文化・遺伝的単位間で行われる測定行為ではなく、もの・身体・世界を生成していく関係性であるという点を明らかにするのもの本発表の目的のひとつであろう。
3-4 疾病概念と人間種——フレックとハッキングの論考から
山中浩司(大阪大学)
ルートヴィヒ・フレックの思考スタイルや集合的思考といった概念はトーマス・クーンのパラダイム論を経由して科学社会学ではよく知られているが、医療社会学においてこれを問題にする論考は少ない、1980年代にフレックの多くの論文が英訳され、論集が出ているにもかかわらず、医療社会学における議論はごくわずかである。本報告では、フレックが問題にする民間疾病表象、ハンドブック科学、専門的知識の三者の間で生じるコミュニケーションや概念の流布について、現代社会における生物医学化の現象を事例として考察し、フレックの議論がクーンのパラダイム論と大きく異なる点を指摘したい。それによってクーンがおそらく見落としがちであった、異質なパラダイムあるいはスタイル間のコミュニケーションや併存の問題について考えたい。
次に、同じ事例をとりあげて、イアン・ハッキングが「人間種のルーピング効果」という論考で用いたhuman kinds という聞き慣れない用語と疾病概念との関連について検討し、概念とその内容の間に生じるルーピング効果を考える。human kindsも疾病概念も、生物医学的研究を上流として、下流に生じる人や症状のクラスではなく、異質な社会世界の接点や交流において発生する対象と考えることで、科学や医学の駆動力を科学者や医学者以外の世界に求める考えを示したい。
10月11日
10:00-12:00
セッション4:科学技術と公共圏
司会:松浦正宏(東京大学)
4-1 NHK非受信装置にまつわる法・技術・社会
掛谷英紀(筑波大学)
筆者らは2014年にNHKのみ受信しないアンテナフィルタを開発し、ネット上で 販売を始めている。この装置の開発には、種々の法的・社会的問題が関係する。NHKは地デジ技術の特許を多数所有しているため、知財権の制約によりNHKが映らない地デジ対応テレビを国内で販売することはできない。一方、放送法64条には「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」とあり、条文を文字通りに読めば、アンテナレベルでNHKを受信できなければ、NHKとの契約が必要ないと解釈できる。アンテナ技術は歴史が古く、テレビのように知財権の制限を受けないことから、NHKのみ受信しないアンテナフィルタ装置の製造・販売は可能である。こうした法の隙間を狙う行為には「脱法行為」との批判もあるが、Amazonのレビューをはじめとするインターネット上の反応は、この装置開発を支持する意見が大半を占めている。その背景には、NHKの現行の受信料制度に対して、多くの人が不満を持っていることがある。NHK受信料取り立ての強引さや、NHKを見ているのに受信料を払っていない人が多数存在する点は、しばしば批判の対象となる。また、公共放送としてのNHKの報道内容・報道姿勢への不満、しばしば発覚するNHKの不祥事も受信料不払い運動を誘発している。もちろん、こうした組織や制度の問題は、本来は立法府によって取り扱われるべきものである。しかしながら、NHKの受信料制度に対する不満は古くからあったものの、長い間放置されてきたのも事実である。本発表では、まずNHKのみ受信しないアンテナフィルタの原理について 述べ、この簡単な技術がなぜ今まで実用化されなかったかについて考察する。続いて、このアンテナフィルタの法的・倫理的正当性について、法律の歴史的側面から検討を行う。最後に、このアンテナフィルタに対する社会的反応を分類し、それぞれの意見について分析を行う。
4-2 米国の戦略文化における科学技術の役割―リップマン・ギャップと3つの相殺戦略
永田 伸吾(金沢大学)
ウォルター・リップマンがU. S. Foreign Policy: Shield of the Republic (1943) で展開した外交論から、米国において、求められる対外政策と投入できる資源の差を「リップマン・ギャップ」と呼ぶ。第2次大戦以降、対外関与を常態化した米国の対外政策担当者にとって「リップマン・ギャップ」を埋めることは重要な課題であり、特に多くの資源を必要とする軍事面ではその要請が大きい。
一国の歴史や文化に根差した戦略上の特徴を「戦略文化」というが、米国の戦略文化の1つに科学技術重視があり、米国は軍事面での「リップマン・ギャップ」を埋めるため、冷戦以降3度に渡り「相殺戦略(offset strategy)」と呼ばれる科学技術の活用による抑止力強化に取り組んだ。「第1の相殺戦略」とは、50年代に、ソ連の通常戦力に対する数的劣勢の相殺を目的とした核戦力の大幅増強(大量報復戦略)であり、「第2の相殺戦略」は、ソ連の通常兵器の進歩と対米核均衡への対応を目的とした、70~80年代にかけてのIT技術を駆使したステルス機や精密誘導兵器などの開発であった。そして現在「第3の相殺戦略」が進められており、そこではロボティクス、自律システム、小型化技術、3Dプリンタなどを新兵器体系の構築に積極的に活用することを想定している。「第2の相殺戦略」以降、米国はハイテクを駆使した新通常兵器体系の構築に傾斜しており、今後は民生技術のスピン・オンのさらなる加速が想定される。
本報告は、科学技術と国際関係の相互作用の事例としての米国の戦略文化形成について、「リップマン・ギャップ」と「3つ相殺戦略」の関連に注目して検討する。
4-3 政策の失敗軌道転換のために:
日本の高レベル放射性廃棄物処分政策における「構造災」をめぐって
寿楽 浩太(東京電機大学)
発表者は過去2回の本学会大会で日本における高レベル放射性廃棄物(HLW)の処分問題に関して、一見すると政策の失敗軌道が修正されつつあるように見えながら、実際には松本三和夫が言う「構造災」としての特徴が残念ながら維持、再生産されている可能性がなおも継続していることを報告してきた。
本報告では、上記の仮説に基づいて昨年度から報告者が開始した質的調査研究の成果を踏まえ、以下の3つの事柄を報告する。
まず、質的調査(関係文書の内容分析、関係者への聞き取り)の結果を報告する。すなわち、この問題に関して何らかの「進展」が見られる諸国では、早期に(報告者がその重要性を主張してきた)「価値選択」の議論を経て原則や方針についての明確な合意を得る努力や、内外の失敗経験を含む専門知(そこには学術的な知だけではなく、実務家や政策担当者が有する実践的な知ももちろん含まれる)を常に積極的に収集し、そこから教訓を得て自らの政策や事業に反映させるための様々な工夫が認められるが、日本の政策形成・実施過程にはそれが決定的に欠けていることが改めて明らかとなった。
続いて、昨年から本年にかけての日本におけるHLW処分問題に関する政策軌道は、引き続き同じ轍を踏み続けており、上記の問題が存続していることを政策上の動きを解説して確認する。
最後に、日本においてさらなる「構造災」の継続・発生を絶ち、政策の失敗軌道を修正するための方策を検討する。ここでは、カナダの政治学者であるジュヌヴィエーヴ・フジ・ジョンソンが提案する「倫理的政策分析」と「構造災」概念、そして専門知と民主主義の両立という、いわゆる科学社会学の「第3の波」論の中心的論点を接続することを試みる。多元主義的な立場に立って複数の政策・技術選択肢を提示しながら、「価値選択」を含む骨太な熟議を尽くしながら政策を漸進的に彫琢する立場への転換の方途を探りたい。
13:30-15:30
セッション5:理論・学説
司会:赤堀三郎(東京女子大学)
5-1 科学コミュニティにおける科学史観の相違と科学革命による理論体系の再構築
~日本におけるプレートテクトニクス理論の展開について~
芝崎美世子・千葉淳一(大阪市立大学大学院・大原法律公務員専門学校横浜校)
プレートテクトニクス理論は、地球科学の分野に大きな影響を与え、生物学分野の「進化論」などと並んで、20世紀の科学革命として認識されることも多い。しかし、その展開については、研究分野によって大きく異なっている。日本では、『日本沈没』(小松左京1973)の驚異的なヒットによって、70年代前半から一般にも広く浸透したが、地質学の分野では、共産主義的な思想の影響を受けた研究者らによる「拒絶」によって、その受容が10年遅れたとされており、現在、こうした科学史観が定説とされている。
しかし、これらの批判は、おもに地球物理や地震学、一部の地質学など、立場の異なる分野の科学者からされており、根拠とされる統計データにも恣意的な偏見が含まれる。こうした異分野からの科学史観の形成には、1970年代の科学者間の激しい対立の影響が見られる。
一方、日本列島の成立や日本海形成については、まだ定説が定まっておらず、現在の「高校地学」の二つの教科書でも、執筆者の立場の違いによって、全く別々の説が記載されている。これは、日本においては、プレートテクトニクス理論の受容には、付加体地質などの「サブ理論」の構築が必要であり、その理論体系の再構築にまだ対立が続いていることを示している。本研究では、こうした日本におけるプレートテクトニクス理論の展開について、東大を中心とした中央集権的な科学史観の形成と、異なる科学者集団によるパラダイム転換期の理論体系の再構築に注目して、ブルデューの「界」の概念を用いて考察する。
5-2 ダナ・ハラウェイの「伴侶種」における科学技術観
猪口 智広(東京大学)
本発表は、ダナ・ハラウェイの「伴侶種」概念をめぐる議論を整理しつつ、そこにおける科学や技術の位置付けとその意義について検討するものである。
『霊長類の見方』(1989)や「サイボーグ宣言」(1989)といった著作でその名を広く知られるハラウェイは、フェミニズム科学論における第一人者のひとりである。自然/文化の二元論を批判しつつ、物質性と記号作用を連関させて論を進めるハラウェイの関心は近年、犬を中心とした動物との関係に向けられている。『伴侶種宣言』(2003)や『犬と人が出会うとき』(2007)といった一連の著作の中で提示されたのが「伴侶種」概念である。
「伴侶種」概念を用いながら直接的に論じられているのは、異種間に存在する「重要な/著しい他者性」を踏まえた上で、われわれは他の種とどのような非‐人間中心主義的な関係を結ぶことができるか、という種間関係における共生・協働の倫理である。しかしそれは、自然環境や生態系をめぐる既存の議論の射程を大きく超えるものである。
ハラウェイは既存の動物・生命倫理との距離感を示しながら、実験における動物と人間の使用関係やバイオテクノロジーによる生命に対して、肯定的な意味を見出している。しかしそれは楽観的な科学技術の是認ではなく、科学的知見に立脚しつつ存在論や関係性の観点から世界を考察する、科学技術/社会の二元論の内破の試みである。この内破は、人と動物の共進化や相互作用の中に混淆性や親密性を見出すところにも表れている。
本発表では、「生(bio-)」の領域がかつてないほど問題となっている現在において、いかに自らと異なった存在と関係性を築いていくのか、という問題に対する視座のひとつとして「伴侶種」が持つ意義を指摘する。
5-3 ルーマンのリスクコミュニケーション論の意義
井口 暁(京都大学)
本報告では、J・ハーバーマスの合意論とそれに対抗して提起されたA・ハーンとN・ルーマンの「了解Verständigung」論の内容を比較検討することで、前者の抱える問題点を明確化し、後者の切り開いた新たな見方の意義を明らかにすることを目指す。そして、ハーバーマス理論を下敷きとする目下のリスクコミュニケーションの実践とは異なる、オルタナティヴな対話のあり方について検討することを目指す。
周知のようにハーバーマスは、価値の多元化した社会においていかにして異質な他者との紐帯を維持できるかを問い、他者との「了解」を志向するコミュニケーション的行為に支えられた「討議」を通じて「誰もが納得しうる合意」を確保することによって、と答えた。
それに対してハーンは、意識システムと社会システムの峻別というシステム理論の視点から、人々の完全な「相互理解」や「合意」は実現不可能であるだけでなく、まさにそれらを目指すからこそコンフリクトが先鋭化し他者との共存が不可能になってしまうのであり、むしろ合意の追求をやめることが他者と了解する=折り合うためには不可欠だという独自の了解論を提起した。
ルーマンは、この議論を発展させながら、リスク論の文脈で独自の了解論を展開した。彼は、「了解」を、主観的同意から区別される「コミュニケーション上での受容」に限定し、心的・主観的な不合意=差異と両立しうる、過度な一致を回避しうる概念化を行った。さらに、人々の自由な討議を重視するハーバーマスとは反対に、了解実現のためには、コミュニケーションの切断・中断をもたらしうる過剰な要求や発言を制限する「討論制限規則gag rule」が必要だと指摘した。この構想には問題点もあるが、あくまでもコミュニケーションの接続・継続の確保に照準を合わせる彼の戦略は、対話の不在が顕著なポスト3.11の現状を考える上でも重要なヒントを与えてくれる。
15:40-17:30
セッション6: 理論・数理
司会:常松 淳(日本大学)
6-1 関係社会学の数理社会学的基礎づけをめぐって
瀧川裕貴(東北大学)
近年、関係社会学、あるいは界の理論を提唱する社会学上の立場が注目を集めている.代表的な論者として挙げられるのは、H.White, J.L.Martinおよびその周辺である.関係社会学とは何かについて、明確な合意があるわけではないが、緩やかには、人々の相互行為や関係から出発して、社会現象の分析を試みる学的アプローチのことと定義できる.学史的には、おそらくG.Simmelにまでさかのぼることができるだろう.しかし、関係社会学が有望な学的アプローチとして注目を集めているのは、抽象的な理論題目や社会哲学的な目新しさというのではなく、それが、1) 形式的・数理的アプローチとの(潜在的な)親和性をもち、そしてそのことによって、2)経験的研究との接続可能性を強く志向しているからだ、というのが報告者の判断である.
そこで本報告では、かかる関係社会学の理論的基礎について検討し、その数理社会学的な定式化を進め、経験的研究との接続可能性について議論することにしたい.第一に、関係社会学の理論的構造を明らかにし、数理社会学的定式化がどこで必要となり、いかにして有益となり得るのかを論じる.ここで特に論点となるのは、関係社会学のコアに位置する、意味と社会形式の二重性の定式化、および社会空間ないし界の組織化のメカニズムの定式化、である.第二に、数理社会学的な定式化をふまえて、関係社会学の経験的研究への寄与の可能性について検討する.関係社会学はいかなる研究プログラムを提起するか、探求に用いられるデータはどのように得られるか、分析はいかにして行われるか、といった点を議論する.以上について、報告者による過去の研究事例(地位階層制の数理モデル等)をふまえて議論を展開していくことにしたい.
6-2 労働社会学-文化人類学-進化生物学:数理モデルによる社会科学横断的研究
大林真也(東京大学・日本学術振興会)
本報告では、数理モデルを用いた分析が社会学(社会科学)に対して持つ意義を論じる。具体的には、大林(2013)やKandori and Obayashi(2015)で扱った社会現象を題材として論じる。これらの先行研究では、コミュニティ・ユニオンと呼ばれる個人加盟型労働組合で行われている合同争議が、なぜ成功するのかという問いを扱った。合同争議とは、紛争当事者ではない組合員が、抗議行動などに参加して当事者を支援する争議を指す。
先行研究ではこうした組合員同士の支援を、「交換」という抽象的な次元でとらえ直した。それにより合同争議が文化人類学や進化生物学で扱われている一般交換と同じ形式を有した交換であることを特定した。しかしこれらの研究では、集団から成員が頻繁に離脱し、新たに集団に加入する人の情報(評判)が不明な場合には、交換は崩壊するとされていた。しかし、コミュニティ・ユニオンはこれらの条件を満たさない流動的な集団であるという特徴を持っていた。こうした既存の理論と社会現象の齟齬に対して、大林(2013)では、数理モデルによって分析することで、流動性のあり方・利得の得られるタイミング・互恵的戦略の組み合わせによって、交換が成立することを示した。
こうした研究が示しているのは、社会現象の抽象化、抽象化による社会科学の他の分野の知見の応用・社会構造の連関を解明するという一連の過程である。また数理モデルを用いることで、具体的な現象を説明しつつも、社会構造の連関や諸個人の行為に関する抽象的な分析が可能になり、労働社会学だけではなく、関連する社会科学の他の分野にも応用可能な理論の構成に寄与することが可能になったことが、上記の研究が社会科学に対しての持つ意義のひとつである。
大林真也、2013、「流動的集団における助け合いのメカニズム:経験的研究と数理的研究によるアプローチ」『社会学評論』64(2): 240-56.
Kandori, Michihiro and Obayashi Shinya. 2014. “Labor Union Members Play an OLG Repeated Game.” Proceedings of the National Academy of Science 111(supplement3): 10802-9.
10月10日(土)
10:00-12:00
セッション1:書評セッション
シーラ・ジャサノフ『法廷に立つ科学―「法と科学」入門』(勁草書房、2015年)
司会:酒井泰斗(ルーマン・フォーラム)
1-1 著作紹介 : 定松 淳(東 京大学)
1-2 コメント1: 佐野 亘(京都大学)
1-3 コメント2: 寺田 麻佑(国際基督教大学)
1-4 訳者のリプライ 1:吉良貴之(宇都宮共和大学)
2:定松 淳(東京大学)
法廷や審議会などにおける科学者・専門家の振舞いや科学的知識の提供・利用のされ方は科学社会学的にとって重要な主題であるが、法や行政に関する研究との連絡が課題となるところでもあるだろう。この書評セッションでは、このたび邦訳が刊行されたジャサノフ『法廷に立つ科学』をとりあげ、専門分野間の議論の場を提供することを目指したい。
本書は「法と科学」分野の古典であり、法と科学技術の各アクターによる実践の相互構築的なあり方・緊張感をもった補完的関係を分析した点に重要な特徴がある。中心的な話題はアメリカにおける司法過程であり、取り上げられる科学裁判の多くは行政訴訟であるため、その意義を理解するにも、まずは行政法的視点からの分析が不可欠である。特に環境法、医事法、情報法については現代の日本も多くの課題を共有しており、比較行政法的分析が有益なものとなるだろう。
また科学裁判で提起された問題が規制行政機関(regulatory agencies)においてどのように受け止められ法政策に結びついていくかを研究主題とする場合、 政治過程における各アクターの行動を行政学・政治学的に分析する視角と、 そこでいかなる法的論理が発展しているかを分析する行政法的視角は、同じく「行政」を対象としながらも非常に異なったものとなる。法の各ブランチ(立法・行政・司法)の相互作用にも焦点を当てた本書について検討する中で、科学/行政/行政法に関わる研究分野が政策過程分析に関して連携する可能性についても考えてみたい。
以上の理由から、本セッションでは、比較行政法と行政学という2つの分野から評者を招き、日米の比較も念頭に置きつつ、科学技術問題に関わる法政策形成過程の多角的な理解につなげることを目指したい。
14:00-15:30
セッション2:事故・災害
司会:TBA
2-1 健康リスク軽減に対する保健師の実践知の制度化―地域防災を念頭に
板倉有紀(日本学術振興会 PD)
南海トラフ地震に対する危惧の高まりのように、広域型の自然災害のリスクは、自治体のリスク管理のあり方に再考をせまるものである。東日本大震災の津波被災地では、岩手県大槌町の事例のように、地域社会における健康リスクという日常的なリスク課題に対して、公衆衛生看護の立場から働きかけてきた保健師の長年の知識が、被災後の安否確認や人口ピラミッドの再編に役立てられてきた(村嶋・鈴木・岡本2012、板倉2013)。保健師は、自治体職員でもあることから、自らが勤務する自治体が被災していなくても、災害時には被災自治体へと派遣される。保健師の知識に基づく行為は、非常時のリスク対処に対してどのように効果的であるといえるのだろうか。こうした課題意識が、保健師の業界においても高まってきている。
そこで、本報告では、いわゆる素人や公衆ではなく、またリスク管理の専門家でもなく、行政職員であり、保健医療専門職でもあり、しばしば被災した自治体の住民でもあるという、保健師の災害対応力に注目する。ベテランの退職保健師を災害対応に向けて組織化した徳島県プラチナ保健師の事例や、神戸市における災害時の保健師の活動マニュアルの事例、実際に被災地に派遣された保健師へのインタビューをとおして、保健師の専門的知識・実践的知識が自然災害のリスク軽減と、どのように関連づけられているのかを検討する。そうすることで、自然災害に伴う、特に健康面でのリスクに対処するための多様な知識に関する社会学的研究の視点についての展望を示したい。
村嶋幸代・鈴木るり子・岡本玲子, 2012,『大槌町 保健師による全戸家庭訪問と被災地復興―東日本大震災の健康調査から見えてきたこと』明石書店.
板倉有紀, 2013,「東日本大震災における『支援』と『ケア』―『ニーズの多様性』と保健師職能(特集 社会問題としての東日本大震災)」『社会学年報』42: 17-29.
2-2 福島第一原発事故後の対策をめぐる批判-改良サイクル
立石 裕二(関西学院大学)
原子力発電(原発)事故やそれに伴う放射線被ばくをめぐっては、「事故のリスクは大きく、放射線は危険だ」とする原発反対派と、「リスクは小さい」とする原発推進派との間で、長い間論争が続けられてきた。2011年に福島第一原発事故が起こると、反対派は自分たちの指摘に事業者が対応してこなかったことが、事故の発生・拡大につながったと主張するようになった。それとは逆に、推進派と反対派の間の膠着した対立が、原発の安全対策を進める上で障害になってきたという指摘もある。新しい対策の導入が原発の危険性を訴える材料として使われることを懸念し、事業者側が対策を躊躇する面があったというのである。実際のところ、論争の中での批判はリスクの低減に貢献してきたのだろうか。
この点を考えるために、本報告では「批判-改良サイクル」という概念モデルを導入したい。これは、1)外部のアクターが問題点を指摘する→2)事業主体の内/外で認知・共有される→3)事業主体が対策をとる→4)外部のアクターが対策の効果を検証し、さらに別の(より高度な)問題点を指摘する→…という循環的なプロセスをさす。実際にリスクが減ったかどうかは検証困難だが、批判に対する対応の有無、その結果としての争点の変化の有無は、社会学のアプローチで明らかにできる。批判をめぐって現実に起きていることは、この理念型的なモデルから多少とも外れていると考えられる(情報が足りずに具体的な批判ができない、要求が極端すぎて対応しようがない、せっかく指摘しても無視されてしまう、対策を取っても効果が測れない、など)。それでは、どのような局面、争点で外れ方が大きくなるのか。それはなぜなのか。このサイクルから外れることは、各アクターにとって、さらには問題の帰趨にとって、どのような意味をもつのか。福島第一原発事故後の論争・対立を事例として考えていきたい。
15:45-17:45
セッション3:病・医療・生物医学
司会:山中浩司(大阪大学)
3-1 誰が生物医学化を望んでいるのか?
-contested illnessにおけるループ効果の三項分析に向けて―
野島那津子(大阪大学、日本学術振興会DC)
Contested illnessとは、身体症状を訴える患者が何らかの疾患があると主張するのに対し、医師はそれを医療的なものと認めない病をいう。筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)、線維筋痛症(FM)、過敏性腸症候群(IBS)などがcontested illnessに含まれる。こうした病には、患者の訴えを裏付ける生物医学的エビデンスが存在しないため、生物医学的知と患者の経験は衝突を起こすとされる。つまり、contested illnessは、患者の状態に対する医師の認識と患者の主張がかみ合わないために、論争の様相を呈するという理解が一般的である。
しかし、報告者が行ったME/CFS及びFM患者へのインタビュー調査では、医師は必ずしも生物医学的知に拘泥せず、患者の状態を見て診断・治療を行っていた。他方、患者の周囲の人間は、患者が診断名を得た後も、病気の存在を否定したり症状を軽んじたりしていた。たとえば、ある患者は配偶者に対してME/CFSについて説明するものの、事あるごとに「医学的に証明されたわけじゃない」と病気の存在を否定されていた。患者の配偶者が意味する医学は生物医学であり、(生物)医学的に説明できない病気は病気足り得ない。
Contested illnessをめぐる従来の社会学の議論においては、医師と一般社会の理解は一枚岩と見なされてきたため、患者の状態に関する医師と周囲の人間の理解のこうした齟齬は奇妙な印象を与える。しかし、概念の利用・理解においてタイムラグのある医師と公衆が、contested illnessに対して同じ見解を示すという前提こそ疑問に付されるべきである。報告者は、contested illnessをめぐる意味づけの構造を解明するにあたり、ハッキングのルーピング効果を用いた検討が有効であると考えるが、概念と対象だけでなく対象外の人も含めた三項の相互作用を検討する必要性を主張する。
3-2 日本における「自閉症」現象の構築と展開
竹内慶至(金沢大学)
現在、先進諸国において、自閉症スペクトラム(ASD:以下「自閉症」)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)をはじめとする、いわゆる発達障害が「社会問題」として注目を集め始めている。このような状況のなか、脳科学や精神医学、心理学などの領域では熾烈な研究競争が巻き起こり、毎日のように関連遺伝子や発現率の報告、心理療法の効果などに関する研究成果が報告されている。
本報告では、特に「自閉症」に着目し、I・Hackingによるループ効果概念をベースに、社会現象としての「自閉症」にまつわる問題群が日本においてどのように構築され、展開されてきたのかについて検討する。
ループ効果概念を用いた研究としては、Gil Eyalらによる『自閉症マトリクス』(“The Autism Matrix”)が知られている。同書は米国における自閉症発現率の急上昇に対して、いくつかの仮説を提示している。Eyalらによれば、自閉症発現率の急上昇の前提となる出来事として、精神遅滞の「脱施設化」があったという。そして直接的には精神遅滞からの「診断代替」として自閉症という診断名が用いられることにより自閉症発現率が上昇したという。さらに、診断代替の背景には、白人中流家庭の果たした役割や早期介入プログラム、特殊教育などの新たな活動家の担い手の参画があった。これらの複合的な要因が重なり、ルーピング過程が拡大・増幅して形成されたループ全体のことをEyalらは「自閉症マトリクス」と呼んでいる(Eyal et al.:2010)
Eyalらの研究は「自閉症」の増加の背景にある社会的要因に関する有力な仮説を提起している。脱施設化や新たな活動家の参入などの仮説は日本においてもあてはまる部分もあるだろうが、全てがあてはまるわけではない。日本における自閉症の増加や「自閉症」にまつわる様々な社会現象の検討は別途必要である。本報告では報告者がこれまでに実施した聞き取り調査や収集した資料をもとに日本における自閉症マトリクスの一部を描き出すことを試みる。
3-3 薬物効果のループ-西ハンガリーの治験施設支援機関の事例から-
モハーチ・ゲルゲイ(大阪大学)
臨床試験(治験)とは、開発中の医薬品などを病人と健常者の両方に投与し、新薬の安全性と効率性を評価する仕組みである。一方では、実薬と偽薬を比べる実験の場であるが、他方では、病気を患っている人々を治すための実践でもあり、その上で理性と感性を媒介しているプロセスだと言える。つまり薬の効果を比べることは、エビデンスを求める治験の最大の目的であると同時に、被験者同士の苦痛をつなぎ、共有する経験を生み出していく。患者が自分の症状に対する感覚を研ぎすませば研ぎすますほど、医師及び企業が薬の効き方の論理を突き止めることができるのである。
本発表では、ハンガリー西部にある小規模臨床試験センター(DRC)の事例から、医師と患者、治験コーディネーターが、どのように錠剤や疾患カテゴリーの多様性に対処しているのかを描き出す。DRCでは、糖尿病と骨粗しょう症に関する研究および治療を中心に、1990年代前半の市場解放から外資系製薬企業と周辺の地方病院とのネットワークを徐々に拡大し、多種多様の患者(被験者)を集めることができるという施設として地位を確立してきた。
そこで諸海外市場に向けた新薬の開発に関係する一連の出来事の一環として、新たな化合物のさまざまな治療効果が、少数であるが多様な患者集団を対象に比較されている。効果的な治療(薬)は、人間の多様性および疾病分類の間を絶え間なく循環しているループに現れ、そこでは科学技術社会論の方法が、探求の科学的モードと人間学主義的モードとの間に確立された境界を乗り越えていく。STSおよび臨床試験の両方において欠かせない手段である《比較》は、多数の分離した民族・文化・遺伝的単位間で行われる測定行為ではなく、もの・身体・世界を生成していく関係性であるという点を明らかにするのもの本発表の目的のひとつであろう。
3-4 疾病概念と人間種——フレックとハッキングの論考から
山中浩司(大阪大学)
ルートヴィヒ・フレックの思考スタイルや集合的思考といった概念はトーマス・クーンのパラダイム論を経由して科学社会学ではよく知られているが、医療社会学においてこれを問題にする論考は少ない、1980年代にフレックの多くの論文が英訳され、論集が出ているにもかかわらず、医療社会学における議論はごくわずかである。本報告では、フレックが問題にする民間疾病表象、ハンドブック科学、専門的知識の三者の間で生じるコミュニケーションや概念の流布について、現代社会における生物医学化の現象を事例として考察し、フレックの議論がクーンのパラダイム論と大きく異なる点を指摘したい。それによってクーンがおそらく見落としがちであった、異質なパラダイムあるいはスタイル間のコミュニケーションや併存の問題について考えたい。
次に、同じ事例をとりあげて、イアン・ハッキングが「人間種のルーピング効果」という論考で用いたhuman kinds という聞き慣れない用語と疾病概念との関連について検討し、概念とその内容の間に生じるルーピング効果を考える。human kindsも疾病概念も、生物医学的研究を上流として、下流に生じる人や症状のクラスではなく、異質な社会世界の接点や交流において発生する対象と考えることで、科学や医学の駆動力を科学者や医学者以外の世界に求める考えを示したい。
10月11日
10:00-12:00
セッション4:科学技術と公共圏
司会:松浦正宏(東京大学)
4-1 NHK非受信装置にまつわる法・技術・社会
掛谷英紀(筑波大学)
筆者らは2014年にNHKのみ受信しないアンテナフィルタを開発し、ネット上で 販売を始めている。この装置の開発には、種々の法的・社会的問題が関係する。NHKは地デジ技術の特許を多数所有しているため、知財権の制約によりNHKが映らない地デジ対応テレビを国内で販売することはできない。一方、放送法64条には「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」とあり、条文を文字通りに読めば、アンテナレベルでNHKを受信できなければ、NHKとの契約が必要ないと解釈できる。アンテナ技術は歴史が古く、テレビのように知財権の制限を受けないことから、NHKのみ受信しないアンテナフィルタ装置の製造・販売は可能である。こうした法の隙間を狙う行為には「脱法行為」との批判もあるが、Amazonのレビューをはじめとするインターネット上の反応は、この装置開発を支持する意見が大半を占めている。その背景には、NHKの現行の受信料制度に対して、多くの人が不満を持っていることがある。NHK受信料取り立ての強引さや、NHKを見ているのに受信料を払っていない人が多数存在する点は、しばしば批判の対象となる。また、公共放送としてのNHKの報道内容・報道姿勢への不満、しばしば発覚するNHKの不祥事も受信料不払い運動を誘発している。もちろん、こうした組織や制度の問題は、本来は立法府によって取り扱われるべきものである。しかしながら、NHKの受信料制度に対する不満は古くからあったものの、長い間放置されてきたのも事実である。本発表では、まずNHKのみ受信しないアンテナフィルタの原理について 述べ、この簡単な技術がなぜ今まで実用化されなかったかについて考察する。続いて、このアンテナフィルタの法的・倫理的正当性について、法律の歴史的側面から検討を行う。最後に、このアンテナフィルタに対する社会的反応を分類し、それぞれの意見について分析を行う。
4-2 米国の戦略文化における科学技術の役割―リップマン・ギャップと3つの相殺戦略
永田 伸吾(金沢大学)
ウォルター・リップマンがU. S. Foreign Policy: Shield of the Republic (1943) で展開した外交論から、米国において、求められる対外政策と投入できる資源の差を「リップマン・ギャップ」と呼ぶ。第2次大戦以降、対外関与を常態化した米国の対外政策担当者にとって「リップマン・ギャップ」を埋めることは重要な課題であり、特に多くの資源を必要とする軍事面ではその要請が大きい。
一国の歴史や文化に根差した戦略上の特徴を「戦略文化」というが、米国の戦略文化の1つに科学技術重視があり、米国は軍事面での「リップマン・ギャップ」を埋めるため、冷戦以降3度に渡り「相殺戦略(offset strategy)」と呼ばれる科学技術の活用による抑止力強化に取り組んだ。「第1の相殺戦略」とは、50年代に、ソ連の通常戦力に対する数的劣勢の相殺を目的とした核戦力の大幅増強(大量報復戦略)であり、「第2の相殺戦略」は、ソ連の通常兵器の進歩と対米核均衡への対応を目的とした、70~80年代にかけてのIT技術を駆使したステルス機や精密誘導兵器などの開発であった。そして現在「第3の相殺戦略」が進められており、そこではロボティクス、自律システム、小型化技術、3Dプリンタなどを新兵器体系の構築に積極的に活用することを想定している。「第2の相殺戦略」以降、米国はハイテクを駆使した新通常兵器体系の構築に傾斜しており、今後は民生技術のスピン・オンのさらなる加速が想定される。
本報告は、科学技術と国際関係の相互作用の事例としての米国の戦略文化形成について、「リップマン・ギャップ」と「3つ相殺戦略」の関連に注目して検討する。
4-3 政策の失敗軌道転換のために:
日本の高レベル放射性廃棄物処分政策における「構造災」をめぐって
寿楽 浩太(東京電機大学)
発表者は過去2回の本学会大会で日本における高レベル放射性廃棄物(HLW)の処分問題に関して、一見すると政策の失敗軌道が修正されつつあるように見えながら、実際には松本三和夫が言う「構造災」としての特徴が残念ながら維持、再生産されている可能性がなおも継続していることを報告してきた。
本報告では、上記の仮説に基づいて昨年度から報告者が開始した質的調査研究の成果を踏まえ、以下の3つの事柄を報告する。
まず、質的調査(関係文書の内容分析、関係者への聞き取り)の結果を報告する。すなわち、この問題に関して何らかの「進展」が見られる諸国では、早期に(報告者がその重要性を主張してきた)「価値選択」の議論を経て原則や方針についての明確な合意を得る努力や、内外の失敗経験を含む専門知(そこには学術的な知だけではなく、実務家や政策担当者が有する実践的な知ももちろん含まれる)を常に積極的に収集し、そこから教訓を得て自らの政策や事業に反映させるための様々な工夫が認められるが、日本の政策形成・実施過程にはそれが決定的に欠けていることが改めて明らかとなった。
続いて、昨年から本年にかけての日本におけるHLW処分問題に関する政策軌道は、引き続き同じ轍を踏み続けており、上記の問題が存続していることを政策上の動きを解説して確認する。
最後に、日本においてさらなる「構造災」の継続・発生を絶ち、政策の失敗軌道を修正するための方策を検討する。ここでは、カナダの政治学者であるジュヌヴィエーヴ・フジ・ジョンソンが提案する「倫理的政策分析」と「構造災」概念、そして専門知と民主主義の両立という、いわゆる科学社会学の「第3の波」論の中心的論点を接続することを試みる。多元主義的な立場に立って複数の政策・技術選択肢を提示しながら、「価値選択」を含む骨太な熟議を尽くしながら政策を漸進的に彫琢する立場への転換の方途を探りたい。
13:30-15:30
セッション5:理論・学説
司会:赤堀三郎(東京女子大学)
5-1 科学コミュニティにおける科学史観の相違と科学革命による理論体系の再構築
~日本におけるプレートテクトニクス理論の展開について~
芝崎美世子・千葉淳一(大阪市立大学大学院・大原法律公務員専門学校横浜校)
プレートテクトニクス理論は、地球科学の分野に大きな影響を与え、生物学分野の「進化論」などと並んで、20世紀の科学革命として認識されることも多い。しかし、その展開については、研究分野によって大きく異なっている。日本では、『日本沈没』(小松左京1973)の驚異的なヒットによって、70年代前半から一般にも広く浸透したが、地質学の分野では、共産主義的な思想の影響を受けた研究者らによる「拒絶」によって、その受容が10年遅れたとされており、現在、こうした科学史観が定説とされている。
しかし、これらの批判は、おもに地球物理や地震学、一部の地質学など、立場の異なる分野の科学者からされており、根拠とされる統計データにも恣意的な偏見が含まれる。こうした異分野からの科学史観の形成には、1970年代の科学者間の激しい対立の影響が見られる。
一方、日本列島の成立や日本海形成については、まだ定説が定まっておらず、現在の「高校地学」の二つの教科書でも、執筆者の立場の違いによって、全く別々の説が記載されている。これは、日本においては、プレートテクトニクス理論の受容には、付加体地質などの「サブ理論」の構築が必要であり、その理論体系の再構築にまだ対立が続いていることを示している。本研究では、こうした日本におけるプレートテクトニクス理論の展開について、東大を中心とした中央集権的な科学史観の形成と、異なる科学者集団によるパラダイム転換期の理論体系の再構築に注目して、ブルデューの「界」の概念を用いて考察する。
5-2 ダナ・ハラウェイの「伴侶種」における科学技術観
猪口 智広(東京大学)
本発表は、ダナ・ハラウェイの「伴侶種」概念をめぐる議論を整理しつつ、そこにおける科学や技術の位置付けとその意義について検討するものである。
『霊長類の見方』(1989)や「サイボーグ宣言」(1989)といった著作でその名を広く知られるハラウェイは、フェミニズム科学論における第一人者のひとりである。自然/文化の二元論を批判しつつ、物質性と記号作用を連関させて論を進めるハラウェイの関心は近年、犬を中心とした動物との関係に向けられている。『伴侶種宣言』(2003)や『犬と人が出会うとき』(2007)といった一連の著作の中で提示されたのが「伴侶種」概念である。
「伴侶種」概念を用いながら直接的に論じられているのは、異種間に存在する「重要な/著しい他者性」を踏まえた上で、われわれは他の種とどのような非‐人間中心主義的な関係を結ぶことができるか、という種間関係における共生・協働の倫理である。しかしそれは、自然環境や生態系をめぐる既存の議論の射程を大きく超えるものである。
ハラウェイは既存の動物・生命倫理との距離感を示しながら、実験における動物と人間の使用関係やバイオテクノロジーによる生命に対して、肯定的な意味を見出している。しかしそれは楽観的な科学技術の是認ではなく、科学的知見に立脚しつつ存在論や関係性の観点から世界を考察する、科学技術/社会の二元論の内破の試みである。この内破は、人と動物の共進化や相互作用の中に混淆性や親密性を見出すところにも表れている。
本発表では、「生(bio-)」の領域がかつてないほど問題となっている現在において、いかに自らと異なった存在と関係性を築いていくのか、という問題に対する視座のひとつとして「伴侶種」が持つ意義を指摘する。
5-3 ルーマンのリスクコミュニケーション論の意義
井口 暁(京都大学)
本報告では、J・ハーバーマスの合意論とそれに対抗して提起されたA・ハーンとN・ルーマンの「了解Verständigung」論の内容を比較検討することで、前者の抱える問題点を明確化し、後者の切り開いた新たな見方の意義を明らかにすることを目指す。そして、ハーバーマス理論を下敷きとする目下のリスクコミュニケーションの実践とは異なる、オルタナティヴな対話のあり方について検討することを目指す。
周知のようにハーバーマスは、価値の多元化した社会においていかにして異質な他者との紐帯を維持できるかを問い、他者との「了解」を志向するコミュニケーション的行為に支えられた「討議」を通じて「誰もが納得しうる合意」を確保することによって、と答えた。
それに対してハーンは、意識システムと社会システムの峻別というシステム理論の視点から、人々の完全な「相互理解」や「合意」は実現不可能であるだけでなく、まさにそれらを目指すからこそコンフリクトが先鋭化し他者との共存が不可能になってしまうのであり、むしろ合意の追求をやめることが他者と了解する=折り合うためには不可欠だという独自の了解論を提起した。
ルーマンは、この議論を発展させながら、リスク論の文脈で独自の了解論を展開した。彼は、「了解」を、主観的同意から区別される「コミュニケーション上での受容」に限定し、心的・主観的な不合意=差異と両立しうる、過度な一致を回避しうる概念化を行った。さらに、人々の自由な討議を重視するハーバーマスとは反対に、了解実現のためには、コミュニケーションの切断・中断をもたらしうる過剰な要求や発言を制限する「討論制限規則gag rule」が必要だと指摘した。この構想には問題点もあるが、あくまでもコミュニケーションの接続・継続の確保に照準を合わせる彼の戦略は、対話の不在が顕著なポスト3.11の現状を考える上でも重要なヒントを与えてくれる。
15:40-17:30
セッション6: 理論・数理
司会:常松 淳(日本大学)
6-1 関係社会学の数理社会学的基礎づけをめぐって
瀧川裕貴(東北大学)
近年、関係社会学、あるいは界の理論を提唱する社会学上の立場が注目を集めている.代表的な論者として挙げられるのは、H.White, J.L.Martinおよびその周辺である.関係社会学とは何かについて、明確な合意があるわけではないが、緩やかには、人々の相互行為や関係から出発して、社会現象の分析を試みる学的アプローチのことと定義できる.学史的には、おそらくG.Simmelにまでさかのぼることができるだろう.しかし、関係社会学が有望な学的アプローチとして注目を集めているのは、抽象的な理論題目や社会哲学的な目新しさというのではなく、それが、1) 形式的・数理的アプローチとの(潜在的な)親和性をもち、そしてそのことによって、2)経験的研究との接続可能性を強く志向しているからだ、というのが報告者の判断である.
そこで本報告では、かかる関係社会学の理論的基礎について検討し、その数理社会学的な定式化を進め、経験的研究との接続可能性について議論することにしたい.第一に、関係社会学の理論的構造を明らかにし、数理社会学的定式化がどこで必要となり、いかにして有益となり得るのかを論じる.ここで特に論点となるのは、関係社会学のコアに位置する、意味と社会形式の二重性の定式化、および社会空間ないし界の組織化のメカニズムの定式化、である.第二に、数理社会学的な定式化をふまえて、関係社会学の経験的研究への寄与の可能性について検討する.関係社会学はいかなる研究プログラムを提起するか、探求に用いられるデータはどのように得られるか、分析はいかにして行われるか、といった点を議論する.以上について、報告者による過去の研究事例(地位階層制の数理モデル等)をふまえて議論を展開していくことにしたい.
6-2 労働社会学-文化人類学-進化生物学:数理モデルによる社会科学横断的研究
大林真也(東京大学・日本学術振興会)
本報告では、数理モデルを用いた分析が社会学(社会科学)に対して持つ意義を論じる。具体的には、大林(2013)やKandori and Obayashi(2015)で扱った社会現象を題材として論じる。これらの先行研究では、コミュニティ・ユニオンと呼ばれる個人加盟型労働組合で行われている合同争議が、なぜ成功するのかという問いを扱った。合同争議とは、紛争当事者ではない組合員が、抗議行動などに参加して当事者を支援する争議を指す。
先行研究ではこうした組合員同士の支援を、「交換」という抽象的な次元でとらえ直した。それにより合同争議が文化人類学や進化生物学で扱われている一般交換と同じ形式を有した交換であることを特定した。しかしこれらの研究では、集団から成員が頻繁に離脱し、新たに集団に加入する人の情報(評判)が不明な場合には、交換は崩壊するとされていた。しかし、コミュニティ・ユニオンはこれらの条件を満たさない流動的な集団であるという特徴を持っていた。こうした既存の理論と社会現象の齟齬に対して、大林(2013)では、数理モデルによって分析することで、流動性のあり方・利得の得られるタイミング・互恵的戦略の組み合わせによって、交換が成立することを示した。
こうした研究が示しているのは、社会現象の抽象化、抽象化による社会科学の他の分野の知見の応用・社会構造の連関を解明するという一連の過程である。また数理モデルを用いることで、具体的な現象を説明しつつも、社会構造の連関や諸個人の行為に関する抽象的な分析が可能になり、労働社会学だけではなく、関連する社会科学の他の分野にも応用可能な理論の構成に寄与することが可能になったことが、上記の研究が社会科学に対しての持つ意義のひとつである。
大林真也、2013、「流動的集団における助け合いのメカニズム:経験的研究と数理的研究によるアプローチ」『社会学評論』64(2): 240-56.
Kandori, Michihiro and Obayashi Shinya. 2014. “Labor Union Members Play an OLG Repeated Game.” Proceedings of the National Academy of Science 111(supplement3): 10802-9.